9月13日に起こったデリーの連続爆発テロ。犯行グループの声明からイスラム教の過激派組織の仕業として捜査が続いている。そんな中、インド国内において、イスラム教徒に向けられる視線は、残念ながら穏やかではなくなっているようだ。
インドの全人口に占めるイスラム教徒の割合は1割強あり、人口10億を越えるインドにおいての1割強であるから、中東の国々のどこよりも、イスラム教徒人口はダントツで一番多い。
ご存知のとおりインドは、あらゆる宗教と人種を抱えながらも、ひとつの国家として成り立っている、いわゆる多種多様な国である。実際、インドで生活していても、普通に何の差別も偏見もなく、さまざまな宗教の人々がそれぞれの存在を認めながら生活しているということが感じられる。
例えば、我が家の現ドライバーさん2人のうち、1人はキリスト教徒、もう1人はスィク教徒 であり、お手伝いのモティさんは仏教徒。それぞれの祭日をお休みと決め、各々の宗教上最も物要りな時期にボーナスを手渡すようにしている。そして歴代12人のドライバーさんの中にはイスラム教徒やヒンドゥー教徒もおり、断食の時期にはそれなりの計らいをするようにも心がけたし、お祈りの時間も尊重するようにもした。それでも、私にとってややこしい事は何もなく、そういうものなのだ、とすんなり受けとめることができている。
カレンダーもまさに多宗教の国ならではで、それぞれの宗教・宗派においての祭日や祝日も書き込まれ、ある宗教にとっては今日は休みだけど、ほかの宗教にとっては普通の日、というのが極当たり前のように存在するが、こちらも混乱なし。
これって凄いことだと思う。あらゆるものを包括し、そしてそれぞれを認め尊重しながら、インドという1つの国の中に納まっているのだ。しかしながら、残念なことに最近度重なる爆発テロの影響で、その平和な共存状態に懸念も生じている。

新聞で取り上げられていたムスリム(イスラム教徒)たちへのインタビュー記事より。
「今のインドで生きるということは、ムスリムにとって、まさに包囲攻撃状態であると感じる。」
「ムスリムである、ということが、爆発テロへの賛同者である、と認識される風潮にあり、我々の安全な生活が危うい。」
「爆発テロ発生後に、インド各地のムスリムに対する風当たりが強いことをひしひしと感じ、周囲がいつ暴走してもおかしくない状況になっており、またそういう状況をさらに悪くしているのはメディアである。」
「町を歩いていて、『ムスリムはインドから出て行け。リンチにあわせるぞ。』と言われ、恐怖を感じている。私たちムスリムだって、テロを恐れ、心から憎んでいるのに・・・」
「今、ムスリムにとっては受難の時期だと言われているけれど、私はインドに生まれたことを誇りに思っている。なぜなら、インドという国は様々な信仰を認め尊重しあいながらも、国家としては無宗教を貫いている素晴らしい国であるから。そんな国にいるのだから、私は何も恐れない。」
「ムスリムは今こそ、自分たちの信じる道を正しく進み、そして共同体としてあるべき姿を反省する時なのではないか。」
「テロリストの弾圧、という名目において、若いムスリム活動家が不当に逮捕されたり尋問を受けたりしている。これは宗教弾圧である。」
私個人としては、イスラム教の一部の人間が卑劣なテロ行為を行ったからといって、全てのイスラム教徒が非難の目で見られることはおかしいと思うし、宗派や組織の行いを宗教団体全体の行為と捉えてしまうことは、とても危険な傾向であるとも感じる。
今回のテロ事件の被害者には、当然イスラム教徒も含まれており、悲しみや怒りは誰しもが同じだとも思うのだけど…。
歴史的にも、世界中のあちこちで、平和に一緒に暮らしていたもの同士が、偏った報道や煽動によって、お互いを憎しみあい、殺し合い、ついには分裂し内紛や紛争へと繋がった例は多々ある。どうか、今回の爆発テロがそのような悲しい事態への火種とならないよう心から祈る。
そして、外国に生活していて感じること。それは、私たち「外国人」が、幸せに平和に暮らせているのも、全て、その国の人々が温かく受け入れてくれているからこそである、ということ。何かの拍子に「外国人排斥運動」などが起こってしまえば、一溜りもなく、私たちの命は危ういものとなってしまう。奢ることなく、ここに平和に生活させてもらっていることを有難く感謝しながら生活しなければ、と改めて感じている。